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ごめんこおむりごっこ16
寒さは寒し、身が縮む。あまりに風が冷たくて涙が出てくる。物理的な涙だ「悲しい涙とそうでない涙は成分がちがうらしいわよ」と大人になった佐藤ねりが言っていた。それは化け学の研究所に勤めていた彼氏の受け売りだった。佐藤ねりはそういうことをトクトクと披露するのが好きだった。その分野が金利にかわってくると、ああ、今度は銀行員とつきあっているのだなとわかった。それは、建築資材の話だったり、マーケティングの話だったり、気圧配置の話だったり、たびたび変わっていき、いったい何人のひとと付き合ったのか、乙骨さんにはフォローしきれなかったのだが、それでも佐藤ねりは一度もほかの苗字なることなく、佐藤ねりであり続けている。、佐藤ねりは気象庁勤務の佐藤シンジさんと結婚し、今は転勤先の前橋で暮らしている。結婚前、佐藤シンジさんがまだ東京勤務で、ご両親といっしょに住んでいた頃、ご両親が温泉旅行に出るからというので、佐藤ねりがその留守宅へ遊びに行ったことがあったらしい。佐藤ねりと佐藤シンジさんが、ご両親の不在に安心して、お互いがとてもたいせつな存在であることを身体的に確かめ合っていたとき、チャイムが鳴った。目的地に着く前にシンジさんのおとうさんの具合が悪くなって、温泉旅行は中止になったのだった。そのとき、ふたりはまだまだ確認の最中であり、忘我の状態であったが、連打されるチャイムの音で地上に舞い戻った。インターフォンでことの次第を知ったシンジさんは、蒼ざめながらもきびきびと着衣し、まだ着衣していない佐藤ねりをどうしたものかと思案し、一瞬のひらめきで押入れの布団のあいだに隠した。具合の悪いおとうさんをシンジさんが車で病院に連れて行くと、血圧が馬鹿たかいので、入院することになってしまった。重大な病の可能性があると言われてうろたえるおかあさんをなだめながら、シンジさんは、医師の説明を聞き、もろもろの手続きをし、結婚して近所に住む妹に事の次第を告げ、必要なものを持ってきてくれるよう頼んだ。はー、これでよし、と受話器をおいてから、シンジさんは佐藤ねりのことを思い出した。あー、ねりちゃん! シンジさんはあわてて自宅に電話したが佐藤ねりは出ない。その頃、佐藤ねりは押入れの暗がりにいた。畳んだ掛け布団と敷布団のあいだに無着衣のまま挟まれていた。布団が重くてなんだか身動きがならないのだが、この状況で身動きして誰かに出くわしてもバツの悪いことだし、まあ、シンジさんを待つことにしよう、と思っているうちに寝てしまった。電話が鳴っていることも、シンジさんの妹がやってきて、家のなかであれこれ用意していたこともまったく気づかず、眠り続けた。妹さんと交代してシンジさんがひとり家に帰ったのは夕方だった。シンジさんが慌てて押入れを開けると佐藤ねりの歯軋りが聞こえた。相当怒っているらしい、と思ったシンジさんはひらあやまりで布団の間から無着衣の佐藤ねりを助け出した。と、薄暗がりの部屋のなかで浮かびあがる寝起きの佐藤ねりの無防備な様子がいじらしくいとおしく、たいせつで……思わず確認の続きを為したのだった。と、またチャイムが鳴って、地上に舞い降りると、妹さんとおかあさんが不安げな顔をして帰ってきたところだった。佐藤ねりはふたたび押入れのひととなった。母子三人が食事をして、妹さんが自宅へ帰ったのは夜の十時を回っていた。が、おかあさんは不安が強く眠れないというので、寝付くまでシンジさんがそばについていた。寝ぼけまなこの佐藤ねりが押入れから出ると塩おにぎりが二個あった。シンジさんが握ったものだった。真偽のほどはわからないが、そのおにぎりがものすごく美味しかったから、このひとと結婚しようと思ったのだ、と後に佐藤ねりは言った。それはきっと、佐藤ねりが一生忘れない塩おにぎりだろうし、乙骨さんもそのサイドストーリーを一生忘れないだろうと思った。その日、佐藤ねりは家に帰らなかった。無断外泊なので、佐藤幸子さん(佐藤ねりのおかあさんだ)が案じて乙骨さんに聞いてきた。乙骨さんはそんな押入れ騒動のことなどなにも聞かされていなかったが、いずれ恋愛模様のひとつなのだろうと、アリバイ工作をして、片棒を担いだ。詳細をうちあわせしたわけでもないのに佐藤ねりは乙骨さんちに泊まったと言い訳したらしい。まさに経験値のモンダイだ。ちなみにふたりの子供の名前はひろしとひろみだ。「名前、練らなかったの?」と乙骨さんが聞くと「そういうことにこだわらないことにしようって旦那がいうから」と答えた。佐藤ねりもおとなになった。

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